白老では鳥をよく見かけた。鳥の目の中に移り住んだら、この世界はどう見えるのだろう。羽ばたき、さえずり、胸を震わせ、本能に倣い獲物を捕らえる。人の理から解き放たれた世界での感覚を翻訳したい、この器から完全に離れることはできないとしても、そう思うようになったという。
同じくアーティストインレジデンスで訪れたインドネシアでジャワ語に、白老でアイヌ語に触れ、言葉が単に物事を説明するだけのものではなく、私たちが世界を捉える方法そのものに関わっているのではないかと感じた。人だけではないあらゆる生き物、神様や霊的な存在が近しい領域で、自分が当たり前だと思っていた物事の分け方や関係の捉え方の解は決して一つではないと気づかされる。白も黒も善も悪も、曖昧なまま決められないまま、規範さえ容易く変わり意味を失う。
言葉では完全に捉えきれない経験、身体に残った感覚や時間の中で変化する感情。例えば、ついさきほどまでよそものだった記憶が、閉じた昏がりの中で深い紫、赤い糸結ぼれ、星となる。痛みは小さな炎となり、跳ねながら、揺れながら、抱きながら、屠られて、抱きしめて、放られて、震えながら、また抱きしめてくり返し、「わたし」はありったけの受動態となり、それらを絵に写す。



