布の襞や皺、身体の一部が何かに見える、その錯覚に導かれ作品をつくりはじめる。シンメトリーに拘らなくなったのも、四角い作品が増えたのも、完結しなくてもよい、風景の一部を切り取るがごとく、つくるようになったからかもしれないと山本は語る。
以前より色合いは透明感が際立つ。向こうが透けて見えるほどのそれは、重さを感じさせず、ぼうっと在る。在る? これまでも充分に曖昧で不確かだったのに、そこに在るはずなのに、不在そのものの象徴のように現実感を欠き、そこに「在るようにみえる」。触れると消えてしまうのではないか。より掴みどころがなく、より軽やかで儚く存在自体を不明瞭にさせて。
知らないのに知っている、いや知っているのに上手く記憶から掬い出せないのか。しかし、それは不快ではない。感覚に意識を委ねていられるのは、そう、どこもかしこも、なにもかも曖昧なままでしかいられないとわかっているから。名前を持たぬナニモノカを瞳に写す。己の存在の不確かささえ覚えながら。